それいけ!タボリーマン

時計じかけのオレンジ(2回目の鑑賞) これは名作なの?

シャイニングに始まり、アイズワイドシャット、2001年宇宙の旅と続き、スタンリーキューブリック作品に着目して、遂にこの「時計じかけのオレンジ」(prime、R15+)にたどり着いた。

実は今回2回目の鑑賞。1回目は10年くらい前に観たが、あまりの暴力に嫌悪感たっぷりのイメージしか残ってない…

この先ネタバレあり。

2回目観ての考察

捕まるまでのアレックスの悪行は、やはり嫌悪感しかない。

洗脳によりシャバに戻されてからも、暴力をふるう人が入れ替わるだけで、アレックスざまぁ的な感情も芽生えず、これまた嫌悪感しかない。

そして、最後に洗脳が解けて元のアレックスに戻るが、これまた不幸が繰り返される未来しかみえず不快なまま終わる。

結局何を伝えたいのか?

2回目でも、この映画が伝えたいことが感じられなかった。

社会という仕組みに知らぬ間に(洗脳によって)組み込まれていく事は危険な事!と伝えているように思ってみたが、そんな仕組みにとらわれず自由を謳歌してた姿が冒頭のアレックスとするなら、ある程度は社会の仕組みは必要だと思う。

欲望のままに振る舞いすぎもダメで、社会の仕組みという牢獄にとらわれて自由を奪われすぎるのもダメ、両極端によらずバランスを取るのが大事だよ!と伝えているんだろうか…

アレックスの邪心の源は?

生まれながらの性質?育て方の問題?社会の問題?どれか一つで成立するとは思えない過激な思想は、いくつもの複合的な要因で発生したと感じた。

一般的に、育て方に大きな要因がありそうだが、本作ではそれがどれほど大きな位置を占めているかまでは読み取れない。気弱そうな父親や、ド派手な母親、どちらも毒親の雰囲気はあるが、決定的にマズい感じも受けない。

違和感があったのは、刑務所でのアレックスの態度。刑務官の威圧的な言動にも、やたら従順で、とても残忍な悪行を働く感じに見えない。表面は優等生で、裏では殺人も平気でやってのける残忍な性格ってのは、一般的に良くある気質なんだろうか…。これはこれで怖いわ。

洗脳後に出会う人々の言動について

新しい息子を迎えた両親にせよ、以前集団暴行を受けたホームレスの爺さんにせよ、かつてドルーグ(仲間)で今は警察官になった彼らにせよ、雨に唄えばの惨劇を受けた作家の旦那にせよ、復讐心が芽生えるのは、人間なら多少仕方のないことかもしれない。

が、一人くらい復讐からは何も生まれない!と気づいても良さそうなのに、全員がアレックスにひどい仕打ちを加える。

これをみて、ざまぁ~とは個人的に思えず、確かに過去の悪行は筆舌に尽くせない極悪非道であったが、今は手足を縛られた囚人同然の彼に制裁を加える行為は、アレックスのそれと同様に残忍に感じた。

一番ひどいのが、ドルーグの彼らよね。他の被害者に比べ、彼らが受けたものは、比較的軽いものであり(なんなら加害者でもあったし)、アレックスを罠にはめて彼だけ逮捕させたことで、その清算は終わってるはず。なのに、追加で制裁を加える根性は、かなり曲がり腐ってて、観てるだけで虫唾が走る…(実際の撮影でも、アレックスの役者は溺れかけたらしい)。

次いで、両親もなかなか残酷なのかもしれない。自分たちの罪は省みず、息子はもう居なかったものとして普通の生活に戻している無神経さは、なかなかキツイかもしれない。

悪行を肯定する何かが(大義名分のようなものが)あれば、自分も劇中の彼らのような残忍な人間に成り下がるのだろうか…。成らないと誓っても、そんな状況下に置かれたとき、残忍さが出てこない保証はない。それは恐怖でしかない。

アレックスの洗脳が解けて…

悲劇は繰り返されることを予感させて映画は終わる。アレックスに危害を加えた人に対し復讐を行うのか、何の関係もない人に新しい悲劇をもたらすのか、その両方な気がしてとても居心地が悪い気分になる。

その両方とも行わず更正の道を歩んで欲しいもんだが、更正のきっかけの様なものがあるとしたら、洗脳によって加害者から被害者になり、その辛酸を舐めて被害者の立場で物事を考えられるようになった、という淡い期待しかない。

まとめ

この作品はモヤモヤの残り方がハンパない!

様々な解釈を許す映画として、これを名作とする向きもあるが、モヤモヤするだけで自分なりの答えに辿り着く感じもないので、私としては未だ名作認定は控えておく。

もう少し人間として熟成して、3度目の鑑賞をしたら、名作認定できるかもしれない。その時を楽しみに、さらに精進していきたい(笑

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