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第7回:「不惑未満」──問いを生きる者の哲学的成熟

私はまだ、問いを生きる者として成熟しきっていない。
哲学を学ぶ理由の一部には、安逸を求める気持ちもある。

末人の状態から、超人への綱を見つけた。

人間は、動物と超人との間に張り渡された一本の綱なのだ。深淵の上にかかる、綱なのだ。

でも、まだ渡り始めたばかりか、
深淵に怯えてスタート地点でうろうろしている者だ。

それでも、問いを手放したくはない。
たった一度でいい。
魂が震えるほどの悦びに触れたい。

そのために、問いを立てる。
そのために、問いを生きようとする。

あなたと共に、勇気をもって渡っていきたい。
途上の者どうし、声を掛け合いながら。

問いをやめることの誘惑

問いをやめることは、楽だ。
思考を止め、他者の価値観に身を委ねることもできる。

でも、それはニーチェが語った“末人”の姿に近づくことではないか。

問いを嫌い、迷いを避け、
ただ“無難に生きる”ことを選ぶとき、
人は成熟ではなく、停滞に向かう。

没落を恐れずに

ニーチェは「没落せよ」と繰り返す。

この「没落」を私は正しく理解しない。
自己超克のために避けて通れないもの、と解釈してみる。

既存の価値観や自己像を壊し、
新たな価値を創造するための、通過儀礼と捉えたい。

不惑未満の哲学的成熟

40代、50代──
責任世代として、家族を守り、社会に関わりながらも、
自分自身の価値を問い直すことは、成熟の証である。

成熟とは、迷わないことではない。
成熟とは、問いをやめないこと。
そして、問いに誠実に向き合い続けること。

それは、末人にならないための、静かな抵抗であり、
魂が震える悦びに向かう、唯一の道でもある。

シリーズを終えて──問いを生きる者へ

このシリーズを通して、
問いを立てること、誇りを自分で定義すること、
そして迷いながらも歩むことの意味を探ってきた

不惑未満──それは、迷いを抱えたまま、
誠実に問いを生きようとする者の哲学的成熟である。

私はまだ渡り始めたばかり。
でも、あなたと共に、この綱を渡っていきたい。
その一歩が、魂の悦びにつながると信じて。

この文章は、自己肯定の低下に悩むあなたの、
小さな処方箋になっただろうか。

ニーチェの思想を、自己肯定の回復という文脈で語ることには、
その苛烈な哲学を矮小化する危うさがあると自覚している。

だがそれでも、もし今、
自分の価値が見えなくなっている誰かの手に、
この言葉が一筋の光明として届くなら──

その矮小化は、誠実な試みとして許されるのではないかと、私は願っている。

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