「私はそれを望んだ。だから、それを愛する。」
ニーチェが語る「運命愛(アモール・ファティ)」とは、 人生に起こったすべて
──偶然、苦痛、失敗、喜び──を、 まるごと引き受け、愛するという態度である。
運命愛とは何か
運命愛は、単なる諦めではない。
それは、人生の出来事を「仕方ない」と受け流すことではなく、 「それが起こったことを、私は望んだ」と言い切る肯定の姿勢である。
ニーチェはこう語る。
君は今生き、またこれまで生きてきたこの生を、もう一度、いな数限りなくくり返し生きねばならず、そこには何の新しいこともなく、すべての苦悩も快楽も思想もため息も、君の生のすべてが最大もらさず再来し、いっさいは同じ系列と順序に従う。
この思想は、永遠回帰の延長線上にある。
繰り返される人生を肯定するためには、
そのすべてを「愛する」必要がある。
そしてここで重要なのは、幸せだけをもう一度ではないということ。
幸せに至るまでにあった苦悩や悲しみも、すべて鎖のようにつながっている。
その鎖を断ち切らず、まるごと引き受けること
──それが運命愛
親としての運命愛
子育てには、思い通りにならないことが多い。
仕事には、理不尽な場面もある。
家族との関係には、すれ違いや葛藤もある。
それでも──
「それが起こったことを、私は望んだ」と言えるか?
運命愛とは、人生の編集を拒否する態度である。
都合の悪い場面を切り取らず、すべてを含めて「これが私の人生だ」と言う。
それは、自分としての誇りであり、問いを生きる者の覚悟でもある。
自己肯定の最終形──人生を愛する
自己肯定感は、過去の肯定から始まり、現在の肯定を経て、 最終的には「人生そのものを愛する」という地点に至る。
それは、成功や幸福だけを肯定するのではない。
失敗も、苦しみも、偶然も──すべてを含めて「よし、もう一度」と言えるかどうか。
次回予告:「問いを生きる──不確かさと共に歩む」
第5回では、シリーズの核心「問いを生きる」という姿勢について掘り下げます。
答えのない人生を、どう歩むか。
不確かさを抱えながら、どう誇りを持って生きるか
哲学的実践としての「問いの力」に迫ります。

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