映画セッション これは迷作でしょう…

色んなサイトでオススメされている、映画「セッション」(字幕版)がプライムビデオで無償公開されてたので、観てみた。

先がまったく予想できない展開で、もの凄く引き込まれ、いつもなら1時間×2日で鑑賞するのだが、一回で見終わってしまうほどだった。

で、見終わった感想だが、「名作ではなく迷作でしょ!?」と思ってしまった。

世間(映画マニア?)の評価は上々だが、私は2回目の鑑賞はないだろうな、と思う。

ここからは、ネタバレありです。

ニーマンはラストで偉大なドラマーになれたのでは?

「なれた」と解釈する方が自然だと思ったが、考えれば考えるほど「なれなかった」に軍配が上がる。

まず、シェイファー音楽院を追われた後、ニーマンはドラムを封印してたよね?その程度の情熱だったということか。また、長期間練習もせずに覚醒する程度の偉大さなのか…。

なにより、ニーマンはフレッチャーに見初められてから一度も音楽を楽しんでいない。ラストのステージでは、観客を楽しませることもしていない。自己満足にドラムを叩いたに過ぎない。

フレッチャーに「Good job」と言わしめたようにも見えるが、仮にフレッチャーがそう呟いたとして、なぜそれが偉大なドラマーの誕生を示唆するというのだろう…。フレッチャーは教育者としては無能であったし、彼が求める完璧な音楽はコンピューター然とした規律ある演奏であった。そのような音楽が多くの観客に感動を与えるのかは甚だ疑問である。そのため、彼に認められたのは事実だが、それが即バディリッチの再来などという短絡的な結論にはならんでしょ!と思ってしまう。

フレッチャーは教育者として無能だったのか?

人格を否定した時点で無能であることを露呈している。それでも、生徒を奮起させるための方便であるなら、やり方はマズいが理解できなくもない。が、生徒を育てるためという大義名分を盾に、自身の支配欲を満たしていただけのように感じた。ニーマンを抜擢したのは、彼にバディリッチの片鱗を見たというより、手駒を増やして脱落者の補填をしたに過ぎない。その証拠に、ニーマンが事故を起こしてまともに演奏できない一件をもって救済の手を差し伸べるでもなく切り捨てている。

おもてたんとちゃう、の連発

期待してた展開としては、フレッチャーは普段鬼教師だが、それは生徒の成長ひいては天才の覚醒のためのトリガーであり、ほんとうに挫折しそうになったときには救済の手を差し伸べてくれる。そんな教師との出会いをキッカケとして、山あり谷ありのイベントの末に、ニーマンは様々な人間的な成長と技術的な成長を遂げ、ついに現代のバディリッチの域に達したのであった…。とまぁ、こんな感じ。

だけど、そのわかりやすいストーリーにハマっていくと見せかけては逸らし、見せかけては逸らし、で観客をぜんぜん満足させてくれない。

剥き出しのエゴから生じた一点の光…

観客に媚びるから良い映画とは言えないので、そこは「ハラハラドキドキさせてくれてありがとう」と言うべき点である。

私がこの映画を好きになれないのは、超絶テクの新生ニーマンの誕生プロセスにある。

最後まで理解しあえなかった、フレッチャーとニーマン。お互いに似たもの同士で、エゴモンスターな二人が、劇中ずぅーとネガティブ光線を炸裂させて、ラストのネガ光線の大衝突の衝撃から偶発的に新生ニーマンが湧き出てきた…。

ラストでは観客から拍手喝采されたのか、シーンと静まりかえって全員あっけにとられていたのか、は定かではない。

負×負は正、なんて法則もあったりするが、少なくとも私は彼らのスパークは美しいとは微塵も思えず、最後の神がかったドラムプレイですら、エゴ剥き出しで賞賛には値しないと感じた。

エゴによるパワーで押し切らず、持てる才能を最大限に引き伸ばすような、いうなれば人間的な成長の果てのあのラストシーンがあったならば、定期的に見返す名作になり得たと思う。

もしも…のコーナー

シェイファー音楽院を退学したあと、幼少期の映像を見るシーンが、もっともニーマンとして正のパワーが満ちていた部分である。

もしも、あのシーンの後、誰に聴かせるでもなく、承認欲求を満たすための道具でもなく、純粋に音楽を愉しむ彼が居たなら、そして醜いエゴを乗り越えて、純粋に音楽を楽しむ彼に生まれ変わっていたのなら、そして最終的にはエゴモンスターのボスであるフレッチャーさえも感化させてしまうような痺れるドラムプレイがあのラストシーンだったとしたなら、とても素晴らしい映画と感じただろう。

制作者の意図は、私の考える「もしも」そのものなのかもしれないが、少なくとも私はそのように感じることは出来なかった。

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